断捨離・ミニマリズム・アンガーマネジメント

離婚を機に断捨離してます。

忙しい中でこそのアンガーマネジメント

四月の職員室は

年度初めの高校の職員室は死ぬほど忙しい。自分はまだましな方だが、他の先生を見ていてもあれこれと仕事が入ってきて目の回る忙しさだ。近年の学校は授業以外の様々なものが入ってきて、例えばキャリア教育、部活動大会関係の仕事、食育、国際交流事業、等々。それに加えいじめ対策、SNS対策、面談など、今までの仕事も同様にこなさなければならない。

仕事の断捨離

 はっきり言えるのは、事業の何かをやめない限り、目立つ成果は挙げられないこと。人的資源も有限、時間も有限、その中で成果を挙げる、今までの行動を変えるには、教室や職員自身の役割の認識を新しくし、今までの行動を捨てるしかない。

 以前の自分は仕事の整理、ひいては人生の整理ができていなかった。どうでもいいことに怒り、苦しんでいた。生徒のこと、同僚からの一言。保護者との関係、大切なはずの家族の認識。それらをひとつひとつ整理し始めたら、不思議と目の前が開けてきた気がする。大事なことは捨てること。捨てて得られるものの大きさに気付くこと。

 そして仕事を自分の人生にどう位置づけるか見極めること。

 「その人は本当に自分の人生に必要な人か?」その問いかけを常に忘れないこと。

四月の職員室、殺人的な忙しさの中でぶれない自分、動じない自分を、今までよりは見つけられた気がする。腹の底からのいやな焦りがなくなった。

 

自分の中に核を作る

生きている以上、自分の生き方を妨害する人は必ずいる。今の自分の苦手だと思う人は「自分の言動が周囲よりも正しいと思っている人」だ。

これは自分の「柔軟であるべき」という価値観に相いれない価値観の人たちだからかと思う。

「自己執着の時には何か自分にとって屈辱的なことが起きると自分の価値がないからこうなったと思いがちである。(中略)自分の意見が通らなかった時に、不愉快になる、怒る。しかし、アテンション・シフトができると、それは自分の意見がくだらないから通らないのではないと思える。だから意見が通らなかった時にイライラしない。」

加藤諦三氏の「対象喪失の乗り越え方」より、アンガーマネジメント的な個所を抜き出した。常々、加藤氏の著書とアンガーマネジメントは共通する部分が多いと感じるが、これがまさしく自分の行動指針と感じる。

 自分の行動指針、それは「毎日を気持ちよく生きる」「感情の整理をする」「自分にかかわる全ての人にアンガーマネジメントを実践する」だ。

 突き詰めると親子関係にも言及しなければならないが、それはまた次の機会に。

 

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

対象喪失の乗りこえ方 ~別れ、失恋、挫折の悲しみを引きずらないために~

 

 

日常的な感情の整理方法

 

職場の送別会があったり、親戚の結婚式があったりと、ライフイベントが多い最近だった。

様々な人と話したり両親と車に乗ったりして気付いたのは、「焦燥感があまりなくなった」ということだ。「人から何も言われたくない」という自分の認識は、「こんなに一生懸命やっている(演じている)自分にこれ以上何も要求しようとしないでくれ」という叫びだったように思う。

 

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そこで思うのは「自分がこういう人間だから」そう思うのではなく、「こう思いたいから」その根拠となる思い出なり出来事に焦点を当てているということだ。自分の場合は「一人でいるのが好き」というパーソナリティが楽だからそこに焦点を与えていただけだ。

 その自分ではうまくいかなくて苦しんだら、そこから自由になろうと教えるのがアドラー心理学だ。以上のことは自分の中では「認知」の作業になる。ここから活用するのは「アンガーマネジメント」だろう。

 

 

外界に左右されない自己

今日は教職員の人事異動の発表で、職員室では一喜一憂の情景が見られた。下は今日の昼飯の冷凍ピザ。

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前の自分なら一喜一憂したのだろうけれど、今は気持ちが恐ろしくフラットだ。

 外界に左右されない=外界の環境は関係なく、今の自分がその場所でどうかというアドラーの教えを知ったからだと思う。

 外界がどうであろうと、その場で幸福を感じて生きることが、実はすべての人に可能であると気付けた自分はなんと幸福なのだろう。

 文章が変だが許してほしい。。。

 

教員としてのキャリア

教員評価という価値観から自由になることについて

教員評価というものを、アンガーマネジメント的にとらえてみる。教員評価とは「教職員が年度の行動目標を決め、年度末にどれくらい達成できたかを自己点検するプロセスの中で、目標設定から実施、チェックの段階で校長の指導助言等が行われ、教職員の職能成長が図られる、というシステムである。」抜粋文科省より。

 この制度の可否とか、それが自分にどう影響するかとかをここで論じる気はない。

伝わらない場所で伝わらない言葉を吐いても意味はないと思う。ではなく、この制度をアンガーマネジメント的にとらえると何が生まれるかを検証したい。

 

 アンガーマネジメントは「怒りの整理方法」だ。教職員評価制度は「変えられないこと」だが「重要なこと」と教員的には言える。ではそれを自分個人へ還元してみるとどうか。

 アンガーマネジメントをやっていると気づかされるのは「自分の価値観」だ。

 教員評価で意図されるのは究極のところ「賃金」と「職位」であり、今の自分の価値観的には「重要ではない」に入る。自分の価値観。賃金は飢え死にしない程度にもらえればよい。お金で手に入るモノは所詮モノであり、自分の価値にはなんら影響を及ぼさない。

教員評価とはあくまで職の評価であり、個人の価値に対してではない。

 教員評価はいわゆる「他人の価値観」で作られた評価であり、それに対して何か言ったりイライラしたりするのはアンガーマネジメント的には正しくない。

 それはそれとして整理をする、始末をつける。シンプルに生きるためにはそれが不可欠な気がする。

笑いについて

憂鬱やストレスに対抗する手段は

 笑いとユーモアは人生のあらゆる苦悩に対抗する唯一の手段だと思う。

受け答えを深刻なものと受け取るか、ユーモアを交えて表現できるかは人生観が大きく異なるだろう。教員は概して真面目でユーモアを交えて受け止めたり受け入れたりが下手な人種と思う。

 

ストレスは受け取り方で笑いに変換できる。

自分の深刻な状況をあえてお笑いのネタとしてとらえてみる。もしとらえるのが不謹慎だと思うときはそれだけ病んでいると受け止める。基準をきちんと作成しない限り自分を客観視できない。ビデオに撮影するのも認知のゆがみを矯正するよい方法だろう。

 

笑えれば満足

笑えるというのは自分を受け入れている証拠な気がする。笑えるかどうか。世界を判断する基準。自分が自分を受け入れられているかどうかの基準。基準をはっきりさせて世界に臨みたい。

アンガーマネジメントを通じて出会った劇薬

最近勉強しているのが

アンガーマネジメントを通じて最近勉強しているのがアドラー心理学だ。アンガーマネジメント「相手のべきを認める」「人と縦の関係ではなく横の関係を築く」

そのための大きな大前提とは・・・「今の自分を受け入れること」だと語る。

自分のあるがまま・・・離婚をしてバツイチの、自分を受け入れることだろう。

教員生活では教員が自分自身を受け入れていないケースが往々にしてあり、また「今のままの自分の授業ではだめだ」「今のままの自分の指導ではだめだ」と感じさせる状況に容易になる職場である。自分はそれは切ないと思う。

教員としての自分の受け入れ方

「生徒を指導できない自分はダメ教員のレッテルを貼られる」「部活動の大会で○位以上でなければならない」「大学進学○人以上でなければならない」と思う教員には「自分が優れていることを誇示することでよく思われようと背伸びをすることは必要ではなくなります」というアドラーの「横の関係」を作る目標を持つべきだと思う。かつての自分がそうだったらどれだけ幸福な思いを味わえただろう。「教育の機能は、成功すること、何者かになることを強要することではなく、君たちが誰の模倣もせず、君自身であることを助けることだ」

 仲間を認め仲間と調和し、自分を他者に貢献できていると思えること・・・それがアドラーの説く受け入れる方法だろう。

 

人がどうかではなく

この通念を自分から始めようと思う。人がどうかではなく、自分から始めたい。自分の受け入れ方だ。

 

 

自分の認知しなおし

 人を悩ませるのは遠くの戦争ではなく

この本を事あるごとに読み返している。自分が昔悩んでいた根本の原因は結局家族に褒められ、愛されない自分を事あるごとに感じていて、その承認を求め間違えた方向、他人に優越するための努力を し続けて袋小路に入ってしまっていた。

・女性を愛せない・・・体だけを求める関係しか築けない

・他人に少し注意をされるとこの世の終わりのように傷つく

・自分を少しでも良く見せようと必死

・常に価値のある自分を感じていたくて、目に見える賞やお金を求める

これらは自分の姿勢、意識が招いた現実だった。それは代替できないものを得ようとした結果だった。それは、その姿勢では本当に欲しいものは得られない、そう覚悟するところから出発するのが自分のスタートだ。

家族は無上の薬でもあるし、最悪の毒にもなりえる

教員という仕事をやっていると、様々な家族の形態に遭遇する。もちろん俗に言うDV、毒親、ネグレクト、汚部屋・・・一通りカタログのように関わってきた。

ひるがえって自分はどうだったんだろう。父親は少し機嫌が悪くなるとすぐに暴言をはく(暴力はない)母親と常に(本人らは冗談というが)言い争う。子どもに当たる事はないのが救いだったが、「自分がもっと○○すれば家族もうまくいくのではないか」という気持ちを醸成するには十分な環境で、専門用語で言うと自分は家族の中で「ヒーロー」の役割だったかと思う。上の「ゆがみちゃん」の本は自分の役割を意識化するうえで非常に役立った。

自分はそれでも親を責めない

それでも自分は親を原因にしたり、責める気はない。ただ許したり感謝する気もあまりない。「それはそういうもの」として事実に意味付けするよりも、「自分はそういう人間にも関わらず、幸せになる権利がある」と認知しなおしたほうが自分には向いているからだ。自分の選択に自信を持てるようになったのが最近だが、断捨離・アンガーマネジメントを通じて自分自身を認知しなおせるように毎日を生きていこうと思う。