「べき」の境界線~教員と進学校~
進学校が世の中のすべての学校ではない
「超」進学校 開成・灘の卒業生: その教育は仕事に活きるか (ちくま新書)
- 作者: 濱中淳子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/03/07
- メディア: 新書
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俗に進学校という学校がある。高校での話。有名大学に○人進学したということを実績の基盤に持つ学校だ。
教員の意識も有名大学に○人合格させる自分は大した教員だ、この学校に赴任した自分は期待されている、という雰囲気が醸成されやすい。全く個人的意見。
しかし当然世の中の学校は進学校ばかりではない。私立ならいざしらず、公立の学校は8割がそれ以外の学校だ。「初めに進学校を経験した教員」と「初めに問題校を経験した教員」では当然意識が変化してくる。自分は後者だ。
対立軸ではなく
もちろん「進学校の教員は生徒指導力がない」とか「一度問題校を経験してから物を言え」などという意見を言うつもりはない。それぞれに大変さがあり、それぞれ同様に問題を抱えている。どちらかがうらやましく見える場合は自分の心に何か問題があると思ったほうがいい。
「べき」の境界線
ただ、進学校にいると「○○べき」が多くなる傾向があると思う。「課題はきちんと自分でやって提出するべき」「成績は必ず良くなるべき」「生徒同士の問題など起こるべきではない」など。他の学校にその「べき」を抱えたまま異動すれば、始終イライラしてどうしようもなくなる状況に陥ることは容易に想像できる。
もちろんそれが良い悪いではなくあくまで傾向だ。
教員としての「べき」
今の自分の「べき」は、「生徒の命は守られるべき」「学校に毎日来るべき」(来てほしい)くらいだろうか。これくらいのほうがイライラしなくて済むと思う。教員として他の同僚の言うことも絶対ではないし、その都度状況も変わる。過保護にしすぎないで見守る、くらいのほうが生徒に対してイライラせずに付き合える気がする。
「べき」は少なくするべきだ。特に教員は自分のためにも。